戦災補償訴え続けた杉山千佐子さんが死去
超長文ですが、吉村弁護士が私の気持ちも代弁してくださっている(私の国会での発言も取り上げてくださっている)ので、シェアします。
(以下、吉村弁護士の投稿)
杉山千佐子さんの御逝去を悼む
先ほど、昼食に出て山陽新聞を見たら、社会面に杉山千佐子さんの訃報が写真付きで出ていた。
杉山さんのプロフィールについては、訃報に関する山陽新聞のネット記事が見つからないので、東京新聞のネット記事をコピペする。
【東京新聞の訃報記事の引用】
杉山千佐子さん死去 「痛み」の半生 平和思い国を批判
2016年9月19日 朝刊
太平洋戦争で負傷した民間人への補償を求める活動を続けた「全国戦災傷害者連絡会」会長の杉山千佐子(すぎやまちさこ)さんが18日、老衰のため死去した。101歳。岐阜市出身。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く。
1945年3月、名古屋空襲で負傷し左目を失った。元軍人・軍属には補償がある一方、民間戦傷者を救済する制度がないことに疑問を抱き、72年に全国戦災傷害者連絡会を立ち上げた。
補償を求めて国会への要請活動を積極的に展開、運動は全国に広がった。2010年、空襲被害者の救済の立法化を求める「全国空襲被害者連絡協議会」の顧問に就任した。
<評伝> 戦時中に空襲で死傷した民間人への補償を国に求め続けた杉山千佐子さんが、101歳で亡くなった。安全保障関連法の成立から一年。戦争の悲惨さを知る杉山さんは、時計の針を戻すようにも見える国の動きに最期まで抵抗した。
昨年7月、安保法案を審議する衆院の議員会館での集会で、杉山さんは「法案を通すなら、まず『一番弱い国民を守る』と一条入れてください」と訴えた。成立前日の昨年9月18日には、本紙記者に「怖いですね。国民そっちのけで、自分たちの考えで突き進んでいく」と憤った。願いとは逆の方向に、日本が進んでいるように思えてならなかった。
原点は、終戦が近づいていた1945年3月。名古屋市千種区の自宅近くで大型爆弾がさく裂した。杉山さんは防空壕(ごう)にいたが、爆風で顔がえぐれ、生き埋めに。「情けなくて、生きているかいがない」。左目を摘出、傷を負った自分の顔に、心はふさいだ。
戦後30年近くが過ぎたころ、旧軍人、軍属とその遺族らと同様に、民間戦傷者にも補償を施す援護法制定を求める運動を始め、同じ境遇の人たちと全国戦災傷害者連絡会をつくった。
その運動でも、何度も傷ついた。「民間人は(軍人らと違い)国との雇用関係がなかった」などの理由で、生涯をかけた法制定は実現しなかった。「戦前、戦後と私はだまされてばっかり」。晩年は残った右目も視力を失った。
それでも諦めなかったのは「援護法ができるまで、戦没者が浮かばれない」との思いからだ。願いは平和への思いにつながり、同じく多くの民間人が犠牲になった被爆地の広島と長崎に毎夏、足を運んだ。
「他人の痛みは、自分がたくさん痛みを感じて知るもの」。戦禍と国の対応に何回も傷ついたからこそ、同じ苦しみを味わう人がもう出ないよう願った。
「人と争わない平和な国にしてほしい。これからも、同じことを繰り返し訴えていく」。戦後70年の昨年、そう語った。願いは国に届くだろうか。
【以上、引用終わり】
杉山さんとは、東京大空襲弁護団の活動で、2度お会いした。
1回目は、2010(平成22)年8月14日に東京浅草 台東区民会館で行われた、「全国空襲被害者連絡協議会」の時。戦後65年にして、空襲被害者の全国組織が初めて結成された。東京、大阪、名古屋、岡山、佐世保、被団協、弁護団、組合など諸41団体、国会議員等数名、弁護団、組合、個人等の約290名、それにマスコミ関係者約30名を含めて320名が一堂に結集した。
杉山さんは、全国戦災傷害者連絡会の会長として出席されており、決意表明と連帯の挨拶をされた。杉山さんは、当時、95歳であったが、私は、その大音声と気迫に圧倒され、空襲被害者等援護法の立法化に人生をかけてきた執念、重みを感じた。
2回目は、同じ年の11月19日の全国空襲被害者連絡協議会の院内集会の時だ。111名(国会議員8名、秘書14名、来賓3名、弁護士12名、法制局2名、各地団体代表・個人等31名、記者8名、原告25名、スタッフ8名)が参加していた。
この集会の、国会議員と全国空襲連との懇談会での杉山さんの発言をネットで見つけた。
【杉山さんの発言】
1915年の生まれ、満95歳になっております。私は3月の空襲で怪我をいたしました。3月10日に東京で10万の人を焼き殺されました。情報がどこからともなく入ってくるんです、新聞にも書かれないですが。当時名古屋の大学の医学部に勤めておりました。あちらこちらの大学の先生方からえらいこっちゃ、えらいこっちゃというて電話がかかってきます。その二日後12日に名古屋に空襲があったんです。よもやと思っておりましたね。それまでは、サイレンが鳴れば、それーといって防空壕に跳びこみましたが、いつも軍需工場ばかりで私たち住んでいるところへは落ちなかったんです。それが3月になったら住まいにどんどん、12日、19日、そして3月25日には大型爆弾。
不幸にもその爆弾と相撲を取りました。負けました。大きな眼帯をかけておりますが、これは目がなくなっただけでなく鼻の上もなくなっちゃたので、ちょいとみっともなくて眼帯をしております。トレードマークになりました。65年経ちました。仲間もいろいろとたくさん怪我をしております。みんなじじばばになってしまいました。生きていません。寝たきりか死ぬか。後遺症がずーっと続いております。私はわりに元気な方だったのですが、90歳になったという歳になった時から、ガタガタっと体調は崩れました。毎年6月になると沖縄に行きます、そして広島へ行きます。長崎へ行きます。8月になれば愛知県で空襲展を開きます。そして慰霊祭をやります。そこまで続けると身体はぐちゃぐちゃでございます。そして9月全国大会をいたします。それでもあちらこちらから生き残った連中が、片足なくなったり片手なくなったりした姿で現れて参ります。
まあ情けない話になります。一生懸命国会へ持って行っても、つい最近知ったのですが、橋本竜太郎っていうあのお偉い方、総理大臣の方、わたしに会ったときはオーオーオー、何だか彼氏に会ったみたいに肩をたたいて、コーヒーを飲ませてくれて、ケーキを食べさせてくれて、まあ橋本さんの部屋へ行くのが楽しみだったんです。ところが、その裏で反対っこでしたね。原爆被爆者の人に補償する時にちょいと、ほんとにちょいと。わたしたちの方を抑えてしまう。黙っていたらこれは国の財政に関わるから切り捨てなければいけない。で、学者などお偉い方が集まって、空襲・戦争で怪我した者、うちを焼かれた者、すべて我慢しなさい、そういうの(原爆被害者対策基本問題懇談会答申、戦後処理問題懇談会報告)が出ました。そんなこと知りませんから、えっさかえっさか国会へ行きますと、だんだんと議員さんが冷たくなってきました。帰りには悔し涙に立ちくれながら、新幹線で帰りません、金がなかったからいつも夜行バス。これは身体にきついですよ。でも夜行バスで行ったり来たりしました。時間がお得です。ホテルに泊まらなくても済みます。乗ったら寝る、それを実行しました。東京駅にまだお風呂がありましたから、そこで沐浴して国会へ行ったものです。
まあどうでしょうか、陰でそんなことされているとは夢にも知りませんでした。あの何十年間むだに動いておりました。
今年名古屋市では、河村市長が「おい千佐ちゃん、おれ市長になったんだってよ」名古屋弁で。本当にやってくれました。今年見舞金が出ました。金額はわずかです。でもこうして自治体が認めてくれたということは何よりもうれしいんです。これを力にして、今日ここに集まった皆さんも頑張ろうじゃありませんか。今度はそんなみみっちいこと言っていないで、国を相手に闘おうじゃないですか。頑張りましょう。
【以上、杉山さんの発言】
ちなみに、先日の岡山弁護士会の国家緊急権に関する憲法講演会についての私のFB投稿で書いた、高井崇志衆議院議員と私が隣同士の席になった「東京大空襲訴訟の時の国会内集会」というのは、この2010(平成22)年11月19日の全国空襲被害者連絡協議会の院内集会のことである。
高井議員の発言もネット掲載されていた。
【高井議員の発言】
3月の院内集会で各地のお話を聞かせて頂きました。特に名古屋からの94歳の杉山千佐子様のお話、本当にわれわれ国会議員が一般市民の皆様の戦争被害の補償について、真剣に取り組んでいかなければならない、そういう想いを強くしたところでございます。また8月には全国空襲被害者協議会が設立されて大きく前進をされておるところ。昨年12月の判決では本当に残念ではありましたけれども、しかし立法化に向けた取り組みというものがしっかりと判決の中に示されておりまして、私たち国会が重くこれを受け止めていかなければならないと思っています。まずは同僚議員の皆さんと一緒に議員連盟などつくる。いろいろな形でこれから一刻も早く立法化に向けて、しっかりと取り組んでいかなければいけないという決意を申しあげまして今日のあいさつといたします。みなさん共に頑張ってまいりましょう。よろしくお願いいたします。
【以上、高井議員の発言】
あの時の杉山さんの御姿を思い浮かべると、天寿を全うしたとはいえ、御逝去の時は、さぞかし無念の思いであったろう。
その人生の辛苦がいかほどだったかを思うと、私の苦労など取る足らないものであり、弱音など吐いていられないという気になる。
最後に、杉山さんの在りし日の御姿が写っている動画をリンクしておく。
御冥福を心よりお祈りいたします。
戦災補償訴え続けた杉山千佐子さんが死去 NEWS.CUBE-SOFT.JP
太平洋戦争の空襲で負傷した民間人への補償を国に訴え続けてきた杉山千佐子さん(101)が18日の朝、老衰のため名古屋市内の施設で亡くなりました。101歳でした。